開山から360年

相応院殿お亀の方。寛永19年9月16日に江戸屋敷で逝去。享年71歳。義直公、直ちに菩提を弔うため相応寺を建立。自らの手で寺号を額に書き、総門、山門、本堂前にその額が掲げられ、また尼僧姿の母を描いて寺に納められました。寛永20年、眼譽呑屋上人が開山。 創建時は現在の名古屋市東区山口町に1万2千坪の境域を定めて七堂伽藍を有し、寺領三百国が支給されました。 爾来、尾張徳川家の夫人・子女が葬られるとともにその遺品も納められてきました。尾張歴代藩主の尊崇篤く、明治維新までは尾張、美濃両国の寺院の布令頭にして、その山内には東月院、玉相院外三ヶ寺の塔頭を備え、歴代の藩主と直接お目通りがかなう「御寺組」のうちの一ヶ寺とされています。


お亀の方のお墓
お亀の方


昭和初期の相応時

当時の住職(四十二世真野耕雲上人)が、開けて行く街の様子と寺院の分布等の状況を鑑みて、移転を計画し、昭和9年に現在地へ移りました。本堂、総門、山門、鐘楼は創建当時のものです。




清水の舞台

移築後の相応寺は山水景勝の城山の地に建てられた為、京都の清水寺を模して、本堂前の境内に清水の舞台が造られました。(残念ながら写真はありません。) そして清水寺から秘仏千手観音像の分身を賜り、毎月18日には清水寺管主を招いて、法要が執り行われていました。当時は名古屋の清水寺として多くの市民が参詣されていました。

駿河御殿

移転の時に「駿河御殿」と呼ばれた200坪の書院も移築されましたが、残念ながら戦災により現存しておりません。狩野派による襖絵がたくさん描かれておりました。