生母お亀の方

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清涼院蔵
若年の打ち掛け姿

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正法寺蔵
弥陀三尊の来迎を受ける相応院

家康が側室を多く召し集めだしたのは、天正の前期(三十歳過ぎてから)と、文禄・慶長(五十歳を超えてから)の頃の二期に分かれる。
「中の三人衆」とは家康が50歳から60歳にかけて寵愛を受けた側室三人衆をいう。お亀の方も「中の三人衆」の一人である。家康が伏見城に居住していた文禄3年(1594)53歳の時、給仕に出た女性があった。その身体の豊かさと美しい容姿に加えて、聡明さに家康は気に入り側室として仕えさせるようにした。その女性が当時21歳であった、お亀である。
お亀は京都石清水八幡宮の社人清水宗清の娘である。社人といっても山伏か、修験者にあたり身分の低いものであった。
家康54歳に、八男の仙千代を出生するが、慶長5年(1600)3月、仙千代は6歳にして早世してしまう。この菩提のために建立された寺院が名古屋市東区の高岳院である。
同年11月、家康59歳のとき、その生まれ変わりのように九男義直が生まれた。幼名を千千代。その後に五郎太丸と名乗る。五郎太丸という幼名は家康自らつけたもので、城壁を築く際に大石巨岩を積み重ねるが、その間に「くさび」として五郎石を用いなければならない。その意味で、この子は天下の「くさび」となってくれるだろうという切なる家康の願いでつけたといわれ、いかに可愛がっていたかがわかる。
後に義直と改名し尾張初代藩主となるのであるが、その後、尾張家では代々の世子に五郎太丸と名付けるようになった。

家康との出会いには諸説ある。八幡に住んでいたとき、竹腰助九郎正時という浪人と結婚歴があり、一子萬丸(伝次郎)をかかえていた。夫である助九郎は会津の上杉景勝に仕えようと、お亀と離別して彼の地へ旅立って行った。その後の消息は断ち自殺したともいわれている。伝次郎養育のため、子を助九郎の父次郎左衛門に預けて、伏見城に奉公に上がり、家康に見染られて側室になった。
また一説には、竹腰助九郎正時は秋田城之助なる者に仕えていたが、故あって切腹した。そのため、後家となったお亀は、京の承地法印の許に奉公に上がったのである。あるとき、たまたま家康はこの承地法印の家へ立ち寄り休息した。そのときに給仕に出たのがお亀で、その豊満な美しさにひかれて側室にしたというのである。

子供に対して苛酷なほどに厳格であった家康も徳川の天下が安泰となったこともあり、お亀の方の子義直、異腹の弟頼宣、頼房と、家康は末子三人には実に甘いよき父親であり好々爺であった。五郎太丸の勉学の師には、林羅山や堀杏菴を付けるなどして、お亀の方ともども駿府城内の側に置いた。慶長8年(1603)4歳になった五郎太丸は甲斐甲府城主二十五万石に封ぜられ、7歳で元服し義知と名乗り、間もなく義利と改める。その後8歳にして大大名の清州城主となったのである。甲府城主となって5年目のことである。
この間も、義利は駿府にて老父家康、母お亀の方とともに住んでおり、甲府へ移り住むことはなかった。清州城主になっても、変わらず駿府城内で両親の許で暮らしたため、代わって当時尾張犬山城主であった平岩親吉が清州城に入り、政務をとっていた。またこの時期、名を義直と改め成瀬正成と竹腰正信が義直の付人とした。竹腰正信とは、お亀の方の一子、萬丸(伝次郎)のことである。お亀の方が側室に入ると同時に内々に伏見城で家康に引見してもらい、小伝次正信と名乗り、家康の小姓となり、義直の小姓に移り、義直が尾張清須の国へ転封後、竹腰山城守正信と名乗るのである。のちには名古屋城の城代家老となって、美濃今尾三万石を与えられた。

慶長15年(1610)、名古屋城が完成すると11歳になった義直は駿府から移り尾張藩の藩祖となった。初代名古屋城主となった16歳の元和元年〈慶長20年〉(1615)、大阪夏の陣の動員で世間が騒然としているとき、4月12日、名古屋城で結婚の儀式を挙げた。新婦は和歌山三十七万石城主浅野幸長の娘春姫で、義直より二つ年下の14歳であった。

その花嫁行列……お供女中の駕籠五十挺、馬上の女中四十五人、長持三百、金具が輝くばかりの花嫁の駕籠、御道具の列、医師、茶道の面々、お供の武士、延々十数町にわたる行列で三の丸御門、西の丸榎多門をくぐって、本丸へ入ってきたのである。家康と一緒に駿府から祝いに駆けつけたお亀の方は、家康と並んで二の丸大手の櫓に上がって満腔の笑みうかべて花嫁の行列を眺めた。姫を迎えて城の奥もにぎわいをもたらし、その後お亀の方も暫く一緒に住み、そのにぎわいを増した。

結婚より4ヶ月後、家康が名古屋城へ立ち寄った時、国奉行の原田右衛門に「新婦を迎えて経費が増えたであろう。どのくらいだ」に対して、「一日に黄金一枚でございます」の答えに、家康は早々「それでは化粧料として木曽一帯並びに河川(木曽川)をくれてやる」といった。ここに尾張は総計六十一万九千五百石という御三家筆頭の尾張藩の地位が固まったのである。

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義直公直筆  晩年の相応院

家康が逝去したのはその翌年であった。お亀の方は髪をおろし相応院尼と称し、ここではじめて、義直とともに名古屋に移り住むことになる。名古屋では藩祖の母として敬意を一身にうける日々が待っていた。その一方で心配事も生まれた。春姫が十年経ってもいっこうに懐妊しないのである。このままでは尾張家が危ういと気をもんだ相応院は、義直に側室を進めた。
だが義直は儒教道徳の教えに凝り固まっていたので、側室など教えに反するといって聞き入れない。兄の秀忠と三代将軍家光も心配して義直に側室を進めたが、やはり側室を持つことは人倫の道に反するといって辞退していたのである。しかし世継ぎのない尾張藩は公儀の法によって断絶してしまう。遂に将軍家光の命で土井利勝が義直に談判し、ようやく落着した。

側室として決定したのは元犬山城主織田信益の次女で、後水尾天皇の中宮正子に仕えていた「おさい」という娘が側室に召し出された。宮廷女性の中でひときわめだつ美人であり、アダ名を四方(よも)様といった。四方とは、どの角度から見ても変わらぬ美人であるためにこのアダ名がついたのである。当時、京都の都でうたわれた歌に「なれるものなら、すごろくになっていつもサイ(おさいさま)とすごしたい」とあるように、宮中の殿上人にいかにさわがれたかがわかる。しかしこの側室になったおさいには、後に鶴姫という女子だけで男子は生まれなかった。

ある日、義直が名古屋城を出て鷹狩りに出かけた日のことである。帰路、今日の名古屋市守山区の大森の地にやって来た時、一天、にわかにかきくもり、大夕立となった。そのとき、前方の農家の前で盥(たらい)の中に老父を入れて行水をさせていた一人の娘が、大夕立が来ると、老父をそのまま盥の中に入れて盥ごとかついで家の中へ入ってしまったのである。これを目の前に見た義直は感心して、早々名古屋城に連れ帰りお湯殿係りの女中として奉公させた。名をお尉(じょう)と言い、ふくよかで美しい娘だった。

しかし相応院(お亀の方)の考えは別のところにあった。義直に世嗣を授からせるには、身分の高い蒲柳の質の姫君たちより、東照宮(家康)がこのわたしを召されたように、出目は低くても丈夫な体を持った娘を侍(はべ)らしたほうが良い、というのだった。そこでお城勤めのお末のなかから最も体つきのふくよかで美しいお尉という娘を、お湯殿係に仕立てて義直の入浴の世話をさせた。計略は当たった。額や首筋に汗をしたたらせて主人の世話をするお尉(じょう)の一生懸命な表情や、濡れた浴衣の下に浮きあがる豊かな体の線に、義直はころりと参った。

かくしてお尉は側室となり、相応院は再び江戸へ移り住んだ。寛永二年(1625)尾張家二代藩主となる光友を生むのである。これを江戸屋敷で知った相応院は、それこそ手の舞い足の踏む所を知らぬばかりの喜びようだった。ただちに二代藩主にふさわしい学識や礼儀作法を身につけさせるため、お尉の方の体力の回復を待って母子を江戸へ呼び、周囲に光友を披露したり、身の周りの世話をやいたり、いきいきと活躍した。ちなみにおさいの方が鶴姫をもうけたのは、光友誕生の一年後である。
相応院は、江戸にあっては幕府の大奥、御三家、親藩との交際に意を用い、将軍の後楯として、尾張家の信望をいやが上にも重くした。

ここまでくれば、もはや出目の低さなど恐れるほどのことではないはずだった。天下の寵愛からはじまって、その子義直、尾張国、孫光友と、欲しいものはすべて手に入れた。
しかし母はあくまで用心深かった。自分が嘗て味わった素姓の引け目を光友に味あわせず、かつ尾張の前途を磐石にする
ため、光友のために最高の花嫁、三代将軍家光の長女千代姫を光友の正室にと願い出たのである。このときの光友は15歳。千代姫わずか3歳であった。

幸か不幸か相応院の願いは許可された。寛永十六(1639)年、豪華な花嫁道具『初音蒔絵調度』(徳川美術館蔵)を持って千代姫は尾張家へ嫁入りしてくるのである。が同時に「天下にもかえがたい大事な娘なのだから、相応院にも大事に守り立てて頂きたい」と、家光から釘をさされる羽目になった。
責任を負わされた相応院は千代姫を手元に置いて、三歳から六歳まで風邪ひとつ引かせぬよう、心魂を傾けて面倒を見た。その心労がたたったのか、やがて相応院は病みがちとなり、ついに寛永19年(1642)9月16日、江戸屋敷で静かに息を引き取った。享年七十余歳。

このように自分の子である義直を名古屋城主に、また先に産んだ竹腰正信を城代家老に任じ、美濃今尾三万石の領主としたのも、お亀の方の力によるところである。
遺骨は江戸伝通院で荼毘に付され、遺骨は遺言により名古屋へ運ばれた。
この母の死に、義直がどれほど悲嘆にくれたかは伝わってない。だが相応院の出目の低さゆえにその引け目を共有し、庇い合ってきた母子である。その母の死は、胸にぽっかり穴があくような喪失感を義直に与えたと察しられる。
愛惜のしるしとして義直は、名古屋に相応寺を創建し、自らの手で尼僧姿の母を描いて寺に納め、手厚く菩提を弔った。
戒名は相応院殿信誉公安大禅定尼。そのとき名古屋で行われた、相応院(於亀の方)の葬儀行列の巻物が相応寺に保存されているが、大変長い盛儀をきわめた行列であったことがわかる(1576~1642)。

当山43世惠澂上人著書「将軍の女」「徳川家康と戦国武将の女たち」「徳川の母と子」より

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